明日は母の命日。この数週間はいろんなことを思い出していました。
日曜日の朝方、母の夢を見て、久しぶりに声をあげて泣いてしまい...
家族のみんなをびっくりさせてしまったけど、夢の中で会えた母はいつもの母の姿で、病気の時の姿ではなくて、ひとしきり泣いてからホッとしたのでした。
母は「我慢」の人でした。
その姿を見て育ったわたしは「母を困らせてはいけない」って心の中でいつも思っていたんだと思います。
とにかく家長の強い家だったので、「なんで女だけ?」って思うことがいっぱいあって...嫁である母の自由はほぼなかったってわたしは思ってます。
わたしの中にはそういう「我慢してきた母」がいて、それを自分にもそして他の方にも強いてきたなぁって...この間泣きながら気がつきました。
「どうしてみんなそんなに自由にできるの?」
「わたしが犠牲になっても家族を支えなければって思ってるのに」
「勝手なことをする親って非常識」
思っても口には出さずにいた言葉が、最近愚痴のようにぽろぽろと溢れ出すのです。
言葉に出せるようになっただけでも自分の中では進歩したって思ってます。
そしてやっと「お母さんは自由にできなかったのに、なんで世の中のお母さんたちはそんなに自由にするんよ?なんでみんな我慢できんのよ?」って泣きながら言葉にできました。
お母さんはようやく自由に生きていけるかも...っていうときに入院してしまって
いつもならすぐ退院できるのに今回は無理で
したいこといっぱいあっただろうに...って思うと心の底から悔しくて。
お母さんが数年前からことあるごとに言っていたことを思い出します。
「あんたは好きに生きていいんよ」「我慢せんでいいんよ」
そのときは受け止められなかった言葉を今、泣きながら受け止めています。
「好きに生きていいわけない」「自由に生きたら悲しむ人がいる」って自分を犠牲にすることが当たり前だと思い込んでいるわたしの根深い部分は母の背中でした。
一番根っこにある、大好きな人の生き方。
それを否定するのが悲しかったしこわかったのだと思います。
母の分も...なんて思わないし、どうしてもこの「母の背中」はわたしにあるものです。
母だとか妻だとか女だとか、人には役割がたくさんあります。
つい「わたし」が最後になってしまうけど、「わたし」を一番前に意識していきたいなと最近は思います。
お母さん、わたしはそうします。
あなたの背中を見てきたからって言いたくないから。
あなたの最後の言葉を大切にしたいから。
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